錦帯橋の概要 … 特異な姿の五連の反り橋
日本三名橋のひとつ「錦帯橋」 (きんたいきょう) は日本を代表する木造橋です。他に例を見ない特異な姿の五連の反り橋が特徴で、1922年 (大正11年) には国の名勝に指定されています。橋の長さは、橋面にそって210m、直線で193.3m。また幅5m、橋台の高さ6.64mです。
錦帯橋の歴史 … 276年間、流失しなかった橋
1600年 (慶長5年) に岩国の地に移封された岩国藩の初代藩主・吉川広家は1608年 (慶長13年) には蛇行した錦川に囲まれた天然の要害の地である横山の山頂に岩国城を築城しました。その麓に居館や上級武士の屋敷を配置、中下級武士の屋敷や町屋は錦川対岸の錦見(にしみ・現在の岩国市岩国1、2丁目あたり)に置き、岩国城下町を形成しました。横山と錦見は川幅約200mの錦川に隔てられており、藩政に橋は必須でした。
第3代藩主・吉川広嘉は、暴れ川である錦川に流れない橋を架けることを決意します。そこで、橋脚のない甲斐の「猿橋」に着目しますが、約30mの猿橋と約200mの錦川では条件が違いすぎ、技術の応用は不可能でした。その後、広嘉は明の渡来僧である独立(どくりゅう)が持つ「西湖遊覧誌」にある、島づたいに石橋が架かる図をヒントに、錦帯橋の構想を得ました。
広嘉は家臣の児玉九郎右衛門に架橋を命じ、1673年 (延宝元年) 10月、岩国藩の悲願であった錦帯橋が完成しました。翌年洪水により一部が流失しましたが、その年のうちに、敷石を強化し再建されました。以来276年の間、老朽による補修や架け替えは何度も行われたものの、流失することはありませんでした。また、架け替えられていく中で改良が重ねられていきました。例えば、橋裏に整然と並んだ補強部材「鞍木」(関連サイト「錦帯橋の四季」) は1682年 (天和2年) に追加されたものです。
しかし長年不落を誇った錦帯橋も、1950年 (昭和25年) 9月、キジア台風による錦川の大増水により、多くの市民が見守る中、惜しくも流失してしまいました。その後、市民の熱意で1953年 (昭和28年) 1月に再建されましたが、それから約50年を経て、木部の傷みが全体的に目立つようになりました。
そのため、2001年 (平成13年) 秋より「平成の架け替え」(関連サイト「錦帯橋の四季」) が、伝統を受け継ぐ岩国の匠の手により、昔ながらの木組みの工法で行われました。2004年 (平成16年) 3月、五つの反り橋はアーチの美しさにこだわって生まれ変わりました。
明治時代から昭和30年頃までの錦帯橋風景は「岩国の昔と今」に古絵葉書を掲載しています。
2005年 (平成17年) 9月6日 に襲来した台風14号がもたらした未曾有の豪雨により、架け替え後、わずか1年半しか経っていない新しい錦帯橋の橋杭が2本流失しました。しかしその後、2006年 (平成18年) 2月には修復工事が完了し、元の美しい姿を取り戻しています。
橋杭流失の詳しい情報 ≫ (関連サイト「錦帯橋の四季」)
錦帯橋の構造 … 経間35mを無脚で渡した組木の技法
反り橋の構造は、頑丈な組木の技法により、橋上からの圧力で更に強度が増す仕組みとなっています。経間35mを無脚で渡した技術は、現代の橋梁工学からみても非のうちどころがないと言われ、300年以上も前の技術力には非常に驚かされると共に畏敬の念を抱きます。
錦川の河原から錦帯橋の裏面を見上げると、精緻な組木を巻金と鎹 (かすがい) で補強したダイナミックな構造美を見ることができます。また水流に対して流線型をした橋台は、水の圧力を軽減する効果があり、橋台周囲に敷きつめられた敷石が橋台の根元を補強しています。
錦帯橋の魅力など … 四季おりおり山紫水明の美しさ
錦帯橋の魅力は橋を取り巻く山紫水明の景観によって更に増幅します。その四季おりおりの美しさは、関連サイト「錦帯橋の四季」の風景写真でご紹介しています。
また、満開の桜に彩られた「錦帯橋パノラマ風景」を掲載しています。春の暖かな日差しを浴びて、一日のんびりと過ごすのは最高の贅沢ではないでしょうか。
2007年 (平成19年) 2月16日、財団法人古都保存財団により「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されました。
≫ 錦帯橋パノラマ風景では桜咲く錦帯橋をぐるりと見渡せます。
2019-10-1 現在
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参考:岩国市観光パンフレット、岩国市ホームページ
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